真玉橋遺構
首里金城石畳道は南に下って、識名園の脇を通り、国場川を渡る。この橋が真玉橋(まだんばし)で、その遺構が国場川の両岸に保存されている。
真玉橋は六連の石造アーチ橋で、そのうち三連の大きなアーチが1945年(昭和20年)の沖縄戦で退却する日本軍によって破壊された。戦後米軍によって鉄橋が、さらに1963年には琉球政府によってコンクリート橋が架けられていたが、2002年に再びアーチ橋として架橋された。この架橋工事の際に両岸側の3つの小さなアーチ橋の遺構が発見された。国場川の南岸の豊見城側二連と、北岸の那覇側一連の小さなアーチが少し場所を移して、豊見城市と那覇市に遺構が保存されている。
戦前の写真を見ると、橋の中央の三連アーチの部分を国場川が流れ、その両脇には広い河原があったようで、そのため両岸側の小さなアーチの遺構が残ったようである。
「真珠湊碑文(まだまみなとひもん)」によれば、真玉橋が最初に架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王の1522年である。その目的は1.日常の政治目的(按司などの使用)、2.城(おそらく真玉橋の南側にあった豊見城(とみぐすく))と水(水害)の保護、3.有事の際に島尻地域の軍勢を那覇港に集結させるため、であり首里と沖縄本島南部(島尻地域)を結ぶ真珠道(まだまみち)の一部として建造された。初代の橋は木造であった。
真玉橋が石造橋となったのは第11代尚貞王の1708年のことで、5連のアーチ橋が完成した。当時の琉球国内では、1451年に建造された長虹堤に続く石造アーチ橋であったと考えられている。橋長約38m、幅員約4.8mで、両端のアーチ橋は無名だが、中の3つのアーチ橋は南からそれぞれ「世持橋」「雲久橋」「世寄橋」と命名されていた。
1809年大雨による川の氾濫で北側の「世寄橋」が壊された。橋の手前で川が弧を描くようにカーブすることで水圧が過重にかかったためだといわれている。そこで1836年に行われた重修工事で、「世寄橋」のアーチを広くし,さらにその北側に新たに「世済橋」を設けるなどの対処がなされた。
1879年(明治12年)の琉球王国消滅後も、1945年沖縄戦の際に米軍の侵攻を阻むため、退却する日本軍によって破壊されるまで健在であった。

国場川にかかる石橋・真玉橋(昭和戦前期)
遺構の発掘
1996年、真玉橋橋梁整備の工事現場で実施された遺構の発掘調査中に石橋のアーチや橋床の一部が出土,それも南北両方の橋のたもと部分から現れた。
真玉橋遺構(那覇市側)
真玉橋遺構2(豊見城市側)北側
真玉橋遺構(豊見城市側)南側
リブアーチ式 (ribbed arch=縦軸積み法) 石橋
輪石(アーチ石)の長い方を縦(橋の渡る方向、川の流れと垂直方向に)に並べた石橋。中国系に多い。アーチを列ごとに造ることができ、幅が広い場合でも、一列分だけの支保工を造り、列ごとに移動して活用できる利点がある。反面、耐震性や大きな石材が必要で加工に手間がかかる等の弱点もある。
沖縄の石橋は殆どがリブアーチ式であり、那覇市の首里城公園北側の円鑑池には、1502年にリブアーチ式(縦軸積み法)で架けられた天女橋があり、日本に現存する最古の石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されている。中国が明の時代、琉球と交易のあった頃に伝わったと云われている。沖縄の石橋は殆どがリブアーチ式であり他の地域ではあまり見ることができない。
スーチリー(潮切)
橋脚部の石積みは、「スーチリー(潮切)」と沖縄弁で呼ばれるもので、橋脚部に当たる川の水流圧を緩めるための構造である。
現在の真玉橋

参照文献:
https://hanmyouken.net/?pid=169544818
琉球建築 田辺泰 座右宝刊行会
https://kenmane.kensetsu-plaza.com/bookpdf/176/at_01.pdf
建設マネジメント技術 2013 年 11 月号
http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/isiyougo.html
石造めがね橋の各部名称と用語
http://www.nan-nan.jp/lib/sb009.pdf
「大分の石橋物語」田村卓夫著
https://www.jcca.or.jp/kaishi/281/281_toku4.pdf
石橋の宝庫 (一村一博)



Last modified: Feb. 04 09:10:00JST 2024
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